特集記事

理路雑然 /-22-

2014年12月13日(土)

特集記事

理路雑然

 分かりきったことを今更と言われそうだ。「まじなう」と「のろう」は同じく「呪う」と書く。どちらで読むのかは前後の文脈で変わる。「まじなう」は例えば幼い子がおでこをぶっつけたとき、「チチンプイプイ、痛いの痛いの飛んでけ!」というイメージで、「のろう」は二号さんに嫉妬した本妻が、わら人形に呪文を唱えながら五寸釘を打ち付けている姿を想像してしまう。我ながら想像力が貧困だ

  思うにこの「まじなう」と「のろう」は同じことに起因するのではないか。つまり人智の及ばない力を借りて何事かをなそうという思いだ。古代は現代の私たちには想像も出来ないほど「迷信」で多くのことが説明され決められた。自然災害や疫病は不幸に死んだ誰かの祟り(たたり)としか説明できなく皆そう信じた。科学的とか合理的などということが全くないわけで陰陽師安倍晴明の世界だ 

 京都にある神社仏閣は、どれも目や耳の病に効くとか子宝に恵まれるなど、今の医者の眼科、耳鼻科、産婦人科、精神科に該当するように専門性がある。祟り(たたり)を封じるものもある。これも何か大きな力がどこかに存在していると心の奥で思っていたからだろう

  科学が発展し迷信を信じなくなっても、初詣に始まり、合格祈願、商売繁盛、家内安全を祈願する。それは、不思議な力が今も存在することを信じ、禍を払ってくれるよう願っているからに違いない。「呪う」は現在も健在だ。


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